自由体操~人生は体操だ。

心がけるだけでだるさも痛みも運動不足もぜんぶ解消

いま話題のアメフトの話(麻布中学編)

危険タックル問題で話題のアメフト。

マスコミの急先鋒は「日大の体質」に向かい、その矛先は内田前監督から田中理事長へ。

肝心のアメフトは置いてけぼり?

肝心のアメフト?

アメフトは私にとって特別な「なにか」なんです。

「なにか」がなにか?を求めて自分の10代を振り返ります。

今回は麻布に入学する前後のお話です。

 

(前章「小学生編」を先にご一読頂ければ幸いです)

 

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素晴らしきTBSドラマ

前章の後、小学5年になったボクはアメフトどころではなくなります。

いわゆる「受験地獄」に突入したのです。

「受験地獄」という言葉が使われ始めたのはまさにその頃だそうです。

4年の3学期から一応、「四谷大塚」に通い始め、一応、「日曜テスト」を毎週受けていました。

ここで言う「一応」は「本気を出していない」という言い訳であると同時に、

当時の小学生の「流行語」でもあります。

正確には「一応な。」

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「一応な。」は、TBSドラマの「ムー」で郷ひろみさんが演じた「拓郎」の口癖です。

樹木希林さん演じる「金田さん(かね「た」です)」が「拓郎さん」になにか尋ねると「拓郎さん」は必ずそう答える。

絶妙な掛け合い。

「一応な。」

「ムー」は子供たちに大人気でした。

「ムー」を見て、ボクもいつかTBSでドラマを作るんだ、なんて思ったんでしょうね。

なわけない。

ちなみに、当時「ムー」の人気がすごかったんで「半沢直樹」以上の高視聴率だったろう、と思って調べたら「ブラックペアン」くらいでした。

(ボクたちは少数の熱狂的ファンだったの!?)

「ムー」大好きなボクたちは、クラスの班でずっと「ムーごっこ」をしてました。

M本H子さんが、五十嵐めぐみ役。

(優等生タイプ。ほくろがチャームポイント)

N村T司くんが、樹木希林役。

(お笑いセンス抜群。NYジェッツが好き)

そしてボクが、郷ひろみ役。

(一応な。)

リハーサルのつもりで

ある日、ボクの「一応」は全国放送(いや、関東ローカル?)されます。

それは、78年2月1日の夕方のニュースでした。

そうです、2月1日は都内私立中学入試の集中日です。

その日、5年4組はたまたま学級閉鎖でした。

ふと思いついて、ボクは麻布中学の入試本番の雰囲気を肌で感じに行きました。

でも、当日の朝にふと思いついたものですから、急いではみたものの、試験開始時刻には間に合わず、学校に着いたときには誰もいませんでした。

受験生は試験中ですし、親は食堂かどこかに集まっていたのでしょう。

誰もいない麻布学園。

こんなのいつ来たって肌で感じられるよ。

今日、慌てて来なくてもよかったじゃん。

いや、ちがうぞ。

教室の方からただならぬ緊張感が伝わってくる。

それを感じた。

やはり、この日に来た意味はあった。

ほんとかなあ?

まあ、そういうことに、しておきます。

すると、

「すみません、受験生の方ですか?」

と言う声。

振り向くと、カトパンみたいな(?さすがに覚えてないです)お姉さんがボクを見て微笑んでいる、ような、申し訳なさそうな、ような。

そりゃそうです。

受験生だったらしゃれになんない大遅刻です。

 

「いえ、ちがいます。5年なんで、、、」

すると、お姉さんは、

「テレビ朝日なんだけど、インタビューさせてもらっていい?」

とボクに尋ねながら、少し離れて様子を見ている母に向かってお辞儀をする。

母は(どうぞ、どうぞ)というジェスチャーをする。

ボクは(テレビ朝日? 何チャン?)と思う。

10チャンの「NET」はその頃「テレビ朝日」に社名変更したばかりでした。

後でわかりましたが、テレ朝は麻布学園から歩いてすぐのところ(現在の六本木ヒルズの一隅)にあって、毎年入試の取材に来てたようです。

かなり恥ずかしかったのですが、ここで断るとなにか「非常に縁起が悪い」感じがしたので、ボクは取材を受けました。

「今日はなにしに来たんですか?」

「来年受験するんで本番がどんな感じか見たくて(ぜんぜん見れてないけど)」

「準備万端ですね。で、お勉強はしてますか?」

「一応」

「がんばって下さいね」

「あ、はい」

という様子がその日の夕方のニュースで流れてしまったのです。

さすがに「一応な。」と言ってのける度胸はありませんでした。(他局だし)

数日後、学校で、クラブ活動の時間に、6年生の女子から、

「きみ、テレビ出てたでしょ?」

と言われました。

あれは、人生で一番恥ずかしかったです。

(もちろん、それまでのわずか11年間で一番であって、それ以降はもっと恥ずかしい思いをいくらでもしてますが)

さて、そのとき、ボクは6年女子に「一応な。」と答えたどうか?

覚えていません。

天国(?)のお父さん、ありがとう

なかなかアメフトの話にたどり着かないので、またこじつけましょう。

いま思えば、麻布の入試の朝、ボクが取材されてるとき、のちにアメフト部でいっしょになる渡邉さんはどこかの教室で受験してたはずです。

運命の出会い。(ぜんぜん会えてないけど)

(渡邉さんについては前章「いま話題のアメフトの話(小学生編)」をご参照下さい)

1年後、ボクは麻布に合格します。

合格できたのはまったくもって父のおかげです。

週刊読売も雑誌も本もやっていてすごく忙しいのにボクの受験を助けてくれた。

勉強は「社会」を少し教えた(それしか教えられない)だけでしたが、なによりも、つねに応援してくれてました。

見守る。

これはかんたん。

見てればいい。心で思ってればいい。

でも、言葉で応援するのはとても難しいことです。

それをしてくれた。

学校から帰ると、居間の壁に、ボクを励ます言葉が貼ってある。

新聞の折り込み広告の裏が白紙のやつに、一言二言、書いてある。

まあ、言葉のプロですから。

響きます。

 

いま、私の娘はあのときのボクと同じ5年生。

一応、受験勉強してます。

「受験地獄」ではないと信じたいです。

いま父のボクは、まだボクの父ほどの「応援」はできていません。

でも、自分なりに娘に対して心がけていることが一つあります。

それは、

娘に呼ばれたらどんなに忙しくても元気に明るく返事をすること。

まあ、忙しいなんてことめったにないんで。

「エースをねらえ!」のテニスブーム。アメフトじゃないんかい!

麻布中学に入学したボクは迷わずテニス部に入部しました。

「きみ、テレビ出てたでしょ?」と6年女子に言われたときにやっていたクラブ活動もテニスでした。

そうです。

「エースをねらえ!」の影響です。

同じ影響を公言する松岡修造さんは一つ年下。

ボクらはお兄さんの松岡宏泰さんと同学年です。

当時の中学テニス界ではお兄さんの方が強くて有名でした。

入部してすぐダブルスを組んだのは1年4組で一緒だった伊藤羊一くん。

(羊一くんが書いた「1分で話せ」はいま売れてます。ベストセラーです。中身について「(過去記事)いま話題のダイエットの話」で触れてます)

でも、羊一がボクより上手な間瀬くんと組むと言い出したので、羊一くんとボクのペアはすぐに解消されました。(練習さえしてない)

次に組んだ小池浩くんとは中1なのにすでに気心が知れてました。

小池くんとは小学校こそちがいましたが、幼稚園が一緒、中学受験のための塾も一緒。

(井の頭線の「久我山」にあった伝説の進学塾「今井学院」!)

小池くんと組んだら、中2の都大会新人戦ではなんとベスト8!

その大会ではダブルスの優勝も麻布のペアでした。

(麻布って勉強ばかりじゃないんです)

優勝したのは、知る人ぞ知る、土井・東原組。

東原くんはいま東大教授で「匂い」研究の第一人者です。

NHKのドラマ「スニッファー/嗅覚捜査官」では医療考証もされてます。

www.nhk.or.jp

最強学年、中3

ところが、中3になると成績が伸び悩みました。

テニスの、です。

中高一貫校の中3はぜんぜん勉強しなくていいので部活は有利です。

麻布中サッカー部の同期は中3のとき都大会で4位です。

ほら、麻布って勉強ばかりじゃないんです。

とくに中学は。

今はどうなんでしょう?

いまも、きっとそうだよね。

そんな中3のボクは勉強しないで、羊一くんから間瀬くんを奪うなどして、ダブルスのペアを変えてばかりいるうちにシングルスもどんどん弱くなりました。

テニス部を辞めたい。

団体競技をやってみたい。

誰かのために何かしたい。(ダブルスや団体戦でもいいんじゃない?)

どうやら「人助け」は好きなようで、そのせいでその後の人生が大きく波打つことになるわけです。(その辺りの話は「プロフィール」でも紹介しています)

アメフト、やりたいな。

麻布に入学してまずびっくりしたのはアメフト部があることでした。

小学生の時に流行っていたものが部活になってる。

「スーパーカー部」や「F1部」があるみたいなもんです。

おまけにアメフト部はホントにプレーするんです。

じつは、やりたくてしかたなかったんです。

でも、中1のときは心が「エースをねらえ!」に負けてしまい。。。

でも、いまは自分が試合で負けてしまい。。。

潮時かな。

テニス部を辞めてアメフト部に入る。

でも、それはかんたんではありません。

正直、とても勇気がいることでした。

のちに、東大3年のとき、経済学部のゼミの面接で、神奈川県の某進学校出身の4年生から、

「麻布のアメフト部って『悪の巣窟』だって聞いたことあるんだけど、本当?」と質問された私は「本当です」と即答しました。

だって、否定できないから。

中学3年生が自ら「悪の巣窟」に飛び込む。

勇気がほしいです。

わずかながら、同級生や後輩がすでにアメフト部に入部していました。

彼らに「噂」について尋ねると「そんなことないって、だいじょぶ、だいじょぶ」と答えます。

信憑性なさ過ぎです。

昭和っぽい上下関係(だって昭和ですから)

「先輩」は「先輩」というだけで怖いんです。

どんなにやさしそうな「先輩」でも、先輩は先輩。

テニス部の先輩だって少しは怖かったです。

少しは。

でも、アメフト部は、、、

(ほら、なんだか「いま話題のアメフトの話」っぽくなってきたでしょ)

でも、そんな状況ならむしろ仲間に入れてもらう方がいい。

身の危険を感じたら相手の懐に飛び込む。

そういう処世術もあります。

(社会人になって、この「術」はTBSでも実践しました)

もちろん、逆もあります。

逆は「君子危うきに近寄らず」と言います。

どっちが正しいかはわかりません。

ケースバイケースです。

成功は真似され妬まれる。でも、幸せは、、、

中3の秋、ボクはテニス部を辞めてアメフト部に入る、という決断をしました。

その決断のおかげで今の私がいる。

そりゃそうです。

過去の決断の上に今の自分がいる。

だれしもそうです。

しかし、どの決断についても、

正しい決断だったか?

それはわかりません。

善き決断だったか?

それもわかりません。

わかるのは、その決断によって幸せになれたかどうか、です。

「正否」や「善悪」は相対的です。

議論の余地が残ります。

でも、「幸不幸」は絶対的です。

「幸せだ」という人に反論することは誰にもできません。

ボクは怪我やらなんやらで結局このあとアメフト部を退部することになります。

でも、ほんのわずかでも麻布のアメフトに関われたことが今のボクを幸せにしてくれています。

もちろん、今となってみれば幸せなんです。

入部のときは足がすくんでました。

桐島か

さあ、テニス部を辞めてアメフト部に入る決心はつきました。

しかし、まだ問題があります。

アメフト部に入るには親の了解が必要です。

ご存じの通り、アメフトは「危険」です。

35年前ですが、学校には「アメフトやるなら親の了解を取ってこい」という常識はありました。

しかし、ボクはまだ親に全く相談していません。

ところがです。

いきなり、母に言われました。

「テニス部やめるの?」

「え?」

なんと、麻布の通学路近くに住んでいた母の友人に「ちくられた」のです。

朝、窓を開けて洗濯物を干していたら、登校する麻布生の話し声が聞こえたそうです。

「佐野、テニス部やめるってよ」

それですぐに電話してきたそうです。

悪気などなく。ねえ、ねえ、聞いたわよ、なんて感じで。

母もボクを責めてはいませんでした。

テニス、やめるの? へえ、そうなの。

そんな感じです。

そして、聞かれました。

「やめてどうするの?」

「、、、」

息子がアメフト部に入りたいと言い出したら親はどう思うか?

アメフトなんて絶対反対されるよな。

どうやって説得しようかなあ。

めんどくさいなあ、今日は説明すんのやめとこ。

 

ところがです。

事態は意外な展開を見せます。

 

(「麻布高校編・上巻」に続きます)

 

 

 

 

自分で自由に体を動かす人がひとり増えれば、日本がひとりぶん元気になります。

2020ならまだ充分に間に合います。

自由体操で動かしましょう。