危険タックル問題で話題のアメフト。
マスコミの急先鋒は「日大の体質」に向かい、その矛先は内田前監督から田中理事長へ。しかしいまや、サッカーのワールドカップが始まったので肝心のアメフトはもう「話題」ですらない。
肝心のアメフト?
アメフトは私にとって特別な「なにか」なんです。
「なにか」がなにか?を求めて自分の10代を振り返ります。
今回はいよいよ麻布高校アメフト部のお話です。
(前々章「小学生編」と前章「麻布中学編」をまずご一読頂ければ幸いです)
人間観察バラエティ「モニタリング」か!?
前章のすぐ後、どうやらボクは、
テニス部をやめてアメフトをやりたいと思っている、、、けど、どうしようか迷っている。。。
そんなふうに父に「相談」したようです。
前章では思わず「決心した」と書いちゃいましたが、実際にはまだ迷っていて、親には「報告」ではなく「相談」したのでしょう。
すると、とんでもないことが起こります。
数日後、学校からうちに帰るとアメフトの社会人選手が「お客さん」として来ているのです。
迷っているなら詳しい人の話を聞いてみたらどうか。
父が考えそうなことです。
そして、すぐに本当にそんな人を連れてきちゃう。
父がやりそうなことです。
もしかしたら「ツテ」に関しては母と麻布の体育科の先生が関与していたかもしれません。
というのは、、、
当時の麻布アメフト部のコーチで後に顧問となる水田秋彦先生はそのときまだシルバースターという社会人チームの現役選手でした。
うちに来てた「お客さん」はそのシルバースターの選手でした。
当時、母は女子美の助教授で水田先生の奥様(当時新婚?)は女子美の卒業生でした。
事実はわかりませんが、もしも麻布の先生がいち生徒の部活の勧誘のために協力してくれたのであれば、それはとてもうれしくものすごく有り難いことです。
だから勝手に、そうだった、と思っています。
ボクは「お客さん」からアメフトの話を聞いたり、アメフト独特の片手を地面に付けてしゃがむような「スタンス」を、まさに「手取り足取り」教えてもらいました。
(その辺のことはわりかしよく覚えています)
でも、それだけのことです。
別に「とんでもない」ことは起きていません。
じつは、とんでもないのはその「お客さん」の素性だったのです。
お客さんはお二人でした。
一人は織田(?)さん。
もう一人は佐曽利さん。
ほら、とんでもない!
アメフト関係者なら「そんなわけない」と思われるでしょう。
いや、じつは私も「そんなわけない」と思っています。
本当に佐曽利正良さんだったとしたら「とんでもない」どころではありません。
佐曽利さんは日本アメフト史上最高の選手とも言われている方です。
うちになんて来るわけない。
これじゃあまるで、TBSの「モニタリング」です。
どっきり番組の仕掛けです。
でも、中3のボクはまったくどっきりしませんでした。
アメフトをやってみたいと思っているだけで、日本アメフト界のことなどこれっぽっちも知らない中3ですから。
しかし「佐曽利」という名前は一度聞いたら一生忘れないでしょう。
ホントかどうかはどうでもいいんです。
佐曽利さんの記憶が捏造だろうと妄想だろうと関係ありません。
肝心なのは「親の了解を得た」ことです。
了解どころか親に勧められたに近い。
ボクは翌日、入部届を出しました。
(いや、体育教官室で「アメフト部に入ります」と言っただけかも)
進学校なのに!?アメフト指導者オールスターズ
さて、第3話にしてようやくボクの選手としての話題にたどり着きました。
ボクは麻布アメフト部11期ですが、麻布では「タッチフットボール」という防具を着けないアメフト(のような)スポーツが体育の授業で教えられていました。
麻布に入学して「アメフト部がある」というだけでもびっくりでしたが「生徒全員がアメフト(の雰囲気)に接する」ということでもう一度びっくり。
タッチフットボール部は早くも昭和23年に創部され、その翌年には「第1回東西高校タッチフットボール王座決定戦」に出場。(音楽家の神津善行さんは創部メンバー)
では、ここで麻布が誇るアメフト指導者のみなさんをご紹介させて頂きます。
近藤昭雄先生:麻布タッチフット部の初代部長にして昭和31年創部の日体大アメフト部の初代監督。学生フットボールの普及に心血を注いだ「アメフト伝道師」。
岩橋聡先生:日体大アメフト部の創立3期の選手で昭和45年から同大のヘッドコーチ。ボクが麻布アメフト部に入部したときのコーチで大きく選手を見守る大黒柱のような存在。
佐藤文夫先生:日体大アメフト部キャプテンにして東西大学選抜オールスター戦にも出場された名選手。麻布アメフト部創部の翌年から28年間指導を続けられ、体格と部員数と練習量で劣る進学校チームを都内屈指のアメフト名門校に育て上げた名将にして恩師。
水田秋彦先生:日体大アメフト部時代に名OT(オフェンス・タックル)として名を馳せたのち麻布の体育教官となる。その傍ら社会人チームのシルバースターで長きにわたり現役を継続。2003年より第3代麻布アメフト部顧問。端正なマスクで多くの女性を虜にする。
中村豪介先生:日体大アメフト部の名QB。2000年の関東学生連盟のリーディングパサー。現麻布アメフト部顧問。
このように、麻布アメフト部は長年にわたり日体大アメフト部と深い信頼関係を築いてきました。
そのおかげでアメフトにおいては進学校らしからぬパフォーマンスを残してきました。
その最高到達地点が82年の春季東京都大会準優勝(関東大会4位)です。
監督の思い出は選手にどう残るのか
入部したその週末に練習試合がありました。
佐藤先生は早くもボクに出場機会を与えてくれました。
高校の試合。
ボクは中3。
ポジションは「タックル」。
タックルは基本的に、最重量級の選手がプレーするポジションです。
ボクは身長165センチ、体重55キロ。
ボクは入部したての中3。
なんで?!
佐藤先生のご指導にはこういった「伝説」がつきものです。
各期にいくつものユニークな逸話が残されていてお人柄が偲ばれます。
しかし、ボクには佐藤先生に直接ご指導を頂いた記憶はあまりありません。
それだけをとってみれば、今回の危険タックル問題に関して宮川選手が語った、
「監督と直接お話しする機会はあまりない」
と変わりありません。
しかし、中身はまったく異なります。
もちろん、35年も前なので話したけど忘れちゃった?
いっそのこと当時のことを全部忘れてしまったとしましょう。
そのとき、佐藤先生の思い出としてボクに残されるものはなにか?
それは「謝意」だけです。
いつもいっぱいいっぱいなら、それも平常心。
中3で入部してから高1の春の大会まではとにかくひたすらがむしゃらでした。
自分でいうのもなんですが、根がくそまじめなもので、ひたすら言われたこと、やるべきこと、やらなくちゃいけないことをただやっていました。
言われること、というのは、先輩に言われること、です。
佐藤先生から直接言われたことは一つしか覚えていません。
(それは次回に)
とにかく、練習はついていくだけで精一杯。
いま思えば、来春の大会に向けて佐藤先生の心中には期するものがあったでしょう。
だから、あのときの練習は特に熱を帯びていたのでしょう。
来春は優勝。
高3を中心とするラインメンはとにかくアメフトがうまい。
高2には超高校級のQBとセンスがいいのが数人いる。
高1は人数さえいればいいところに一応走れるのがいる。
だから勝機がある。
いまとなってみればボクもそう思います。
でも、当時は周りがなにも見えていません。
だいたい、入部したばっかりで練習が厳しいのか厳しくないのか比べるものがありません。
テニス部より厳しいかと問われても競技がちがうので答えようがありません。
ふだんと同じ練習なのか特別なのか?
そんなこと気にもかけず、ある日は日体大にお邪魔して練習相手になってもらう。
大学生はやっぱりつえーなあ。
またある日は学習院大学と練習試合をする。
あれ、大学生に勝っちゃった。
先輩についていくのが精一杯でなにがなんだかさっぱりわからないうちに、
スターティングメンバーになってて、
活躍とは言わないまでも、足を引っ張るほどでもなく、
チームは3試合とも圧勝して、
気がつけば春季都大会準決勝戦。
1982年5月、都立西高グランド。
たまたまうちの近所だったので母が初めて応援しに来ました。
対戦相手は前年度、関学高を倒して全国制覇した強豪駒場学園。
ボクはあいかわらずやるべきことをやるだけ。
緊張より高揚より、いつも通りいっぱいいっぱい。
駒場学園のキックオフで試合開始。
第1クォーター、駒場はアーリーパントという奇策(テニスのドロップショット的な)で攻撃権を放棄しながら麻布陣に迫る。
直後の麻布の攻撃はセーフティという失策(サッカーのオウンゴール的な)で2点を失う。
ある意味、駒場学園の狙い澄ました狙い通り。
先取点を許したけど、ボクはあいかわらずやるべきことをやるだけ。
いつもいっぱいいっぱいなら、いまもいっぱいいっぱい。
それって、平常心?
しかし、、、
気がつけばゲームセット。
ビデオで見みると、試合終了のホイッスルが吹かれ、鳴り止んだ刹那、フィールドにいた麻布の選手たちはみな呆然としている。
忘我。
先輩たちも無我夢中だったんですね。
次の瞬間、選手たちの喜びが爆発する。
麻布、決勝進出。
ビデオで見ると、カメラの近くにいる他校の生徒の声が録音されている。
「駒場が負けた。信じられない。ちょっと待ってくれよ。ばん、ばん、番狂わせ」
ビデオで見ると、、、ん?
さっきからなぜ、ビデオ?
気がつけばボクは吉祥寺の秀島病院にいた。
ボクの身にいったいなにが!?
(「麻布高校編 下巻」に続く)
自分で自由に体を動かす人がひとり増えれば、日本がひとりぶん元気になります。
2020ならまだ充分に間に合います。
自由体操で動かしましょう。

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