たしか履歴書には「特技」という項目がありましたね?
「特になし」と書く人が多いのでしょうか、、、
実際、履歴書に書ける「特技」ってなんでしょね?
資格を取るような技能なら「資格」の覧に書くでしょうし。
「指がこんなに曲がる」とか、一発芸みたいなことを書いて、面接のときにそこから話を広げる、という作戦はありかもしれませんが。
しかし、面接官にそこをスルーされたら、、、
私は履歴書を書くことがあれば(まだあるのか?)、正々堂々こう書きたいと思っています。
失せ物探し
手袋はなくしやすいので要注意
昨日のことです。
娘が「あれ?あれ?手袋がないよー!」と軽く騒ぎ出しました。
探しもの名人のパパに探してもらおうという魂胆が見え見えです。
パパはそんな娘をしばらく無視します。
やがて娘は「ねえ、パパ、手袋がない」と面と向かって言います。
うちの生活空間はほぼ一部屋なので、さっきから全部聞こえています。
無視はしてても見えてます。
見えちゃうんです。
しかたない。
そろそろ取りかかるとしましょう。
まずは消去法で、さっきから娘が探しているところにはなさそうです。
ちゃんと探せていない、ということもあり得るので、一応候補地には残しますが、優先順位は下げておきます。
というか、すでにありそうなところはピンときてます。
パパ「最後に手袋をしたのはいつ?」
娘「んー?おととい、かな」
パパ「じゃあ、おととい外に出たとき上着は何を着てた?」
娘「んー?グレーのダウンかな」
パパ「じゃあ、そのダウンのポケットを探してごらん」
娘「あ、あった」
ボタンは難しいですよ。転がりますから。
先週、実家の母を病院に連れて行ったのですが、そのとき母に付き添ってくれていた家政婦さんが、コートの袖のボタンをなくしてしまいました。
「似たようなのを付け直しますから、大丈夫です」
家政婦さんはそう言いますが、こちとらもう「失せ物探し」の虫が騒いでます。
まずは、家政婦さんが乗っていた私の車の後部座席を探します。
いちばん怪しいのは当然そこです。
でも、ありません。
次に、病院に到着してからたどった駐車場から受診科までの動線を歩いて探します。
でも、探しながら、その辺りにはないような気がしています。
家政婦さんは母が乗る車いすを押してくれていたのですが、その状態で袖からボタンが外れるというのは、まるで「自然に落ちる」ようなことです。
それはちょっとなさそうです。
万が一落ちたとしても大きなボタンですから音がして気づくはずです。
ということは、、、
私はもうピンときています。
受診が終わり、会計を済ませ、車いすの母を車に乗せた後、ここぞと思っていた場所、つまり「車いすの座面」を探しました。
母を座らせるときに車いすのどこかと家政婦さんの袖はギュッと挟まったはずです。
そのとき糸が切れてボタンが取れた、としか思えません。
すると、、、
あれ?
おかしいな。
あるとしたらここなんだけど?
見当たりません。
でも、やっぱり車いすは怪しい。
見つかるときは「見つかる気」がするんです。
そのときも「見つかる気」はしていました。
そこで、車いすを折りたたみながら、ガンガン叩いたら、コロンとボタンが落ちました。
失せ物探しも自由体操も「考える」
ボタンといえば、もうひとつ、これはもう何年も前のことですが、義理の妹がなくしたボタンをみつけたことがあります。
でも、それはまた次回に書くことにします。
それよりも、失せ物探しと自由体操の共通点をお伝えしたくて。
さて、こんなふうになくしたものをすぐ見つけると、
すごい勘だね!
と言ってもらえたりします。
このときの「勘」は直感のことです。
第六感とかインスピレーションとも言います。
神がかり的に突如「答え」が舞い降りる
そういうイメージです。
しかし「太陽にほえろ!」で「山さん」が「刑事の勘だよ」と言うときの「勘」は「推理」のことです。(この例えで大丈夫だろうか?)
夫の浮気に気づくときの「女の勘」も、じつは推理なのですが、ときどき妻は無意識に「推理」していて、本人さえ「直感」だと信じてたりします。
なぜなら、その推理は「瞬間的」だからです。
これら2つの「勘」のちがい、つまり推理と直感のちがいは何でしょう?
そのちがいは明らかです。
推理の「勘」にはデータ分析があり、直感の「勘」にはありません。
推理は「プロファイル」で、直感は「当てずっぽう」なのです。
私が「失せ物探し」をしているときに「ピンとくる」瞬間は「突然答えが浮かんだ」ときではありません。
できるだけたくさんの手がかり(データ)を集めて、それらを分析して、やっと答えが出たときに「ピンとくる」のです。
やっと答えが出るまでに数十分かかることもあれば、数秒のときもあります。
数秒のときはたいてい「当てずっぽう」だと思われますが、数秒間とはいえ、頭の中でいろいろと「考えた」結論なのです。
体を「適当」に動かす
とても興味深いことに「適当」という日本語はこの2つの意味、つまり「当てずっぽう」と「正しく分析する」の両方に使うことができます。
いつでも、どこでも、どんなふうにでも、体のどこでも、少しでも、自由に動かす。
私は自由体操をそう定義していますが、簡単に説明するときは、
体を適当に動かして下さい
と言います。
言われた人は、なんでもいいんだ、いいかげんでもいいんだ、と思います。
もちろん私もそういう意味で言っています。
その「てきとう」は漢字の「適当」よりもずっと「テキトー」な感じです。
そんなふうに「テキトー」な自由体操をずっと心がけて、自分の体と長く向き合っていると、体のどこが良くなっているのか、悪くなっているのか、そういう変化に敏感になっていきます。
やがて、
どこをどう動かしたらどこがどうなったか
そういう因果関係もだいたいわかるようになります。
すると、
ここをこう動かしたらここはこうなる
そういう推理が働くようになります。
もうお分かりですね。
そうです、
そのとき、あなたの「テキトー」な自由体操は「適当」な自由体操になります。
このとき、「適当」は「いいかげん」ではなく「適切」「的確」「相応」になっています。
私は6年以上自由体操を心がけていますが、いまはこの2つの「テキトー」と「適当」を使い分けています。
すごくかんたんに言うと、
全身は「テキトー」で、問題箇所は「適当」です。
たとえば、1ヶ月前に骨盤のずれが分かってからは骨盤矯正のために「適当」な自由体操を多く行っています。
前回の体操カタログ「膝を抱える」の次に「適当」,つまり骨盤矯正に効きそうだ、と思ったのはこれです。
そして今は、右回りか左回りか、どちらが私の骨盤のずれに有効なのか「効き定め」をしている最中です。
当てずっぽうの「勘」でどちらかに決めるのではなく、手がかりを分析して推理して、どっち回りがより効くのか考えます。
左のずれや歪みや凝りを解消するなら、右回り(時計回り)でハイハイする方が左股関節の可動域は大きくなるので、おそらく右回りが正解だろうという推理がここで働きます。
その推理を実証するのに2週間くらいかかるかも。
適当な自由体操ですが、これ以上深く考えず「テキトー」にやってみます。
自分の体のことを自分で考えて自分に合った動きをする。
それが究極の自由体操であり、それは「自分体操」です。
それは自分で自分の体を「考える」体操です。
他人に教わるのではなく、自分で考えることが認知症を予防することは言うまでもありません。
記事はいつもながら私見です。
2020ならまだ充分に間に合います。
自由に体を動かしましょう。

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