自由体操~人生は体操だ。

心がけるだけでだるさも痛みも運動不足もぜんぶ解消

自由とは⑦ ~ 他人を害さないすべてのことをなしうること

個性は自由から生まれる


生まれたばかりの赤ちゃんの人生は大きくて真っ白な自由帳です。
親は白紙の自由帳に罫線やマス目を引きたがります。
けれども、こどもは自由にはみ出します。
いつしか、あの真っ白だった自由帳は立派な一巻の絵巻物になっています。
くまなくびっしり描き込まれたもの。
なんども重ね塗りしたもの。
まだまだ余白が残っているもの。
その絵巻たちはじつに様々です。
どれひとつとして同じものはありません。
そして、どれひとつとして完成していません。
だれもが描き続けていて、描けば描くほど、自由に描くのは難しくなります。
次のひと筆からは、ますます「自由」が失われます。
しかし、自由は減っても、なくなりはしません。
完成を目指せば、最後のひと筆を描く日がやってきます。
この部分には、この形、この線、この色しかない。
もしも、そんな選択の余地のないひと筆を描くときが来たら、自由は失われます。

精神の自由

しかし、幸いなことに人生に完成はありません。
完成させなければ、自由は生涯ともにあり続けます。
あのときも、これからも、自由はそばにたくさんあります。
いまこの瞬間も、私たちはとんでもない自由を手にしています。
「とんでもない自由なんて持っていません」
そう思いますか?
そう思うのもひとつの自由です。
いつ、どこで、なにを、どう考えようと、それは私たちの自由です。
「想像」は完全に限りない自由です。
ほんとうに、とんでもない自由です。
なにしろ、想像するだけなら、空だって飛べます。
宇宙にも、異次元へも、どこでも行けます。
想像。
思考。
それは人類に与えられた宝物です。
「我思うゆえに我有り」

物思う自由は憲法によって守られた自由です。
だれもがこの自由を持っていて、だれもこの自由を侵してはなりません。
物思う自由を自らコントロールできなくなれば、うつ症状のような気分障害を引き起こします。
物思う自由を知らぬまに他人に奪われれば、マインドコントロールされます。
テレビや新聞やSNSに溢れる他人の意見を無批判に受け入れても、自ら物思う自由は妨げられます。

知的生物ならではの配慮

この自由は、限りない自由です。
でも、それに気づくことはほとんどありません。
自由を感じることは困難です。
かんたんに感じられるのは不自由の方です。
買いたくても買えない「不自由」という名のドレスは、心のクローゼットで燦然と光り輝いています。
しかし、手は届きません。
昔から持っている「自由」という名の普段着は、すでに身にまとっているのにそれには気づきません。
自由さは、自由であればあるほど、目立たちません。
自由は空気のようにそこに存在しています。。
いえ、空気は地球上にわずか500兆トンしかなく、物思う自由は無限にあります。

とんでもない自由があるのに、気になるのは不自由ばかりです。
それは、私たちが人間社会に暮らしているからです。
人間社会とは、人間が集団で生活しお互いに関係している状態や組織です。
社会では他者との関係のせいで、がまんしなければいけないことが必ず出てきます。私たちはそれを不自由と感じます。

だったら、人里離れた山奥で孤独に自給自足すればいい。
そういう人もいます。
それもまた自由です。
人類の多くがそれを実行すると、人類は存続の危機にさらされます。
生殖によって次世代を産まなければ人類は絶えます。
しかし、人類にはそれを拒む自由もあります。
私たちには他人を害さずに自由に生きる権利があります。
誰とも交わらず山小屋で独り薪を割る男は、一匹狼のようでかっこいいです。
憧れます。
それもまた自由です。
生殖を前提としないパートナー選びもまた自由です。
思考のうちでは、肯定も否定も完全に自由です。
しかし、公の発言に完全な自由はありません。
知性を得た高等生物として他人を害さない配慮があるべきです。

(つづく)