危険タックル問題で話題のアメフト。
マスコミの急先鋒は「日大の体質」に向かい、その矛先は内田前監督から田中理事長へ。やがて、サッカーのワールドカップが始まり、大阪で震災が起こり、肝心のアメフトはもはや「話題」ですらない。
肝心のアメフト?
アメフトは私にとって特別な「なにか」なんです。
「なにか」がなにか?を求めて自分の10代を振り返ります。
今回は完結編。
(「小学生編」、「麻布中学編」、「麻布高校・上巻」をご一読頂ければ幸いです)
ランニングバックをぶっつぶせ。そんなこと誰も言わない。ぶっつぶすのがふつうだから
麻布アメフト部史上最大の激闘。
1982年5月9日 VS 駒場学園
試合終了。
18 - 2
終わってみれば、麻布の失点は第1クォーターのセイフティ2点のみ。
駒場学園のタッチダウンをひとつも許さず、麻布は3タッチダウン。
快勝。
この歓喜の輪にボクはいません。
試合中に怪我をして救急車で病院に運ばれていたからです。
第1クォーターに「30左フェイク42」というボクの一番好きなクロスのランプレーで鎖骨を折りました。
ちなみに、折れた次のプレーはこれ。
ボクは先輩の前を走ってブロックしなければいけません。
でも、肩が痛くて全速力で走れず、一応ブロックしてますが、全然間に合っていません。
「ちゃんとやれよ!佐野!」
この後のハドルでめっちゃ怒られました。
このブロックですでに折れていた鎖骨が少し砕けたようです。
次のパントで一目散にベンチに戻りました。
ハーフタイムに救急車で運ばれて、勝利の瞬間は病院にいました。
翌日、鎖骨を金属でつなぐ手術を受けました。
2週間後の決勝戦は出られませんでした。
「82年春季東京大会決勝戦」
麻布 12 - 26 日大桜丘
創部9年目にしての初優勝は成りませんでした。
ボクが出場してたら勝ってた。
それが言えるなら、
(骨折せずに)ボクが出場し続けてたら準決勝で負けてた。
それも言えます。
あらゆる「たられば」は「たられば」に過ぎません。
さらに2週間後の関東大会1回戦 VS 慶応高校は出場しました。
意地で。
病院を抜け出して防具を着けてユニフォームを着てサイドラインに立っていただけです。
出場というより観戦です。
正直に言うと、慶応戦をサイドラインから「観戦」したことによって少しアメフトを好きではなくなりました。
いま思えばわずか半年足らずの努力ですが、16才のボクにはあまりに痛烈な徒労感でした。
これぞまさしく、
骨折り損のくたびれもうけ
病院にこっそり戻って翌日、「中間テストを受けないといけないから退院させてくれ」と医者に頼みました。
「ダメだ」と言われたので「じゃあ勝手に退院する」と言って荷物を片づけていたら、「ギプスをはめたら退院してよい」と言われました。
なんだこれ? 防弾チョッキ? ガメラ?
上半身を石膏に覆われて退院しましたが、ひと月ほどしたら梅雨が明け、暑くて暑くてやってられないので、同級生でその後アメフト部に入部した矢島浩(通称:ブッチャー)のお父さん(整形外科医)にギプスを切ってもらいました。
そんな勝手をしたものですから、治りが悪く、痛みが残り、秋季大会は棒に振りました。
82年の秋季大会、チームは4季ぶりにベスト8を逃しました。
正直その頃は、痛くてもう復帰できない、いや、治っても復帰したくない、と思っていました。
でも、翌春の大会にはまた出場しました。
「中学生編」に記したとおり「人助け」は嫌いではないので、たぶん、みんなのためなら、と思ったんでしょう。(よく覚えてないけど)
親に内緒で復帰したので、練習着などは後輩に洗濯してもらってました。
(関くん、神戸くん、ありがとうございました)
チームはボクが復帰しなければ棄権になる状況でした。
つまり、ボクを入れて11人。
サイドラインに控え選手がいません。
高校チームならたまにある、とはいえ、さすがに珍しい光景です。
ボクはボクが高2の時の11人だけのこのチームが大好きでした。
まじめな先輩とそうでない先輩がいて(アメフト以外において)。
中学からアメフト部入って大学まで続けた後輩が何人もいて(いったい何年やってんの)。
大人になった後、私の人生を大きく狂わす同期がいて(人生、狂ってこそ)。
83年春季大会は11人でもベスト8に入りました。
優秀な選手が揃っていました。
これ以上の少数精鋭はないです。
11人なんだから。
大学で甲子園ボウル(全日本大学アメリカンフットボール選手権大会決勝戦)に出場した選手が二人もいましたし。
渡邉弘幸さん(明治のエースQBとして日大を破って出場。「小学生編」にも登場)
神戸七郎くん(京大で2度出場。1年でOTで先発出場し日大を破って優勝)
3回戦で負けた相手はまたも日大桜丘(ボクは初めてでしたが)
麻布を2年連続で負かした日大桜丘のQB佐藤知浩さん(上の写真で赤いユニフォーム右から2人目)はいま日大のコーチでいらっしゃいます。
(日大フェニックスの公式サイトでは上から2番目)
この試合、負けはしましたが、ボクの短いアメフト人生の中で一番思い出に残っている試合です。
(敵のチアリーダーの目の前を独走したときはサイコーの気分でした)
83年の春季大会が終わり、ボクはアメフト部を退部しました。
もうできないと思いました。
鎖骨骨折からリハビリもなにもない滅茶苦茶な復帰をしたので、肩が痛い。
ショルダーパッドの下に食器洗い用のスポンジを何個も入れてプレーしてました。
思い出の試合では、ディフェンスで思いっきりタックルできなかったのも忘れられない思い出です。
ところがです。
高2の秋季大会は「助っ人」として試合に出ていました。
アメフトの虫が騒いだのでしょう。
虫のいい話です。
みんなはつらい練習に耐えてやっとこの大会に臨んでいるのに、ボクときたら。
部員数が少ないのにつけ込んで、直前になってちょろっと練習に出て、試合に出る。
部員はボクを入れて15人でした。
84年春季も同じでした。
同期や後輩は「出てくれるなら出てよ」。
しかし、顧問の佐藤先生はそういう選手はできれば出場させたくなかったかと。
でも、現実的には「そんな佐野でもいないよりまし」
いまはどうか知りませんが、あの頃の麻布アメフト部は、本当は「助っ人無用」で試合をしたかったはずです。
「麻布高校・上巻」で記した佐藤先生への「謝意」には2つの意味があります。
一つは、ありがとうございました。
もう一つは、すみませんでした。
麻布卒業後、私にはしばらくOB資格がありませんでした。
当然のペナルティです。
でも、現在はOB会の一員として活動のお手伝いしています。
現役支援について意見交換する定例会に参加していることは「小学生編」の冒頭に記したとおりです。
素晴らしい先輩後輩のみなさんとご一緒させて頂いてます。
この会の座長でOB会事務局長の渡邉さんはアメフト関係者なら誰もが知っているすごいひとです。
そして、私にとっては「最も思い出に残る試合」でキャプテンを務めていた一個上の先輩です。
でも、当時の渡邉さんは、アメフト選手としてより遊び人として有名だったかもしれません。
「読者モデル」という言葉も概念もなかった時代に高校生でモデルをしてたり。
渡邉さんが「POPEYE」の表紙を飾っている頃、ボクはアメフト部を途中退部してぷらぷら遊んでいました。渡邉さんは引退していました。
その頃、青山の骨董通りの入り口に「TOKIO」というディスコがありました。
そこに遊びに行くたびに、ボクは渡邉さんに会ってしまいました。
ボクはディスコで渡邉さんに会うたびに、やばい(本来的意味)、ぶっ飛ばされる、と身構えましたが、渡邉さんはいつでも「おお、佐野、、、」と言うだけでした。
おまけに、なんと笑顔。(さすがにニコリでなく、ニヤリ)
ボクの「ち、ちわっす」は声になってたでしょうか。。。
ちなみに、上の写真で渡邉さんが着ている水色のジャージは、麻布アメフト部の現OB会会長 高梨吾朗さんがオーダーメイドしたものだそうです。
ちなみに、「POPEYE」というのは平凡出版社(現マガジンハウス)が76年に創刊した「男性ファッション誌」です。
ちなみに、この号を開くとこんな感じです。
大まじめに「Magazine for City Boys」というサブタイトルです。
「Wikipedia」によれば「POPEYE」は「アメリカの現代的生活様式を日本に紹介」とあります。
アメリカを紹介?
商品、価格、お店の名前、お店の電話番号、、、
あれ?
こっちは「Made in U.S.A 1975」です。
このブログの「アメフトの話」を初めから読んで下さった方はもうお気づきですね。
そうなんです。
「POPEYE」は「小学生編」で紹介した「Made in U.S.A 1975」から生まれました。
75年に週刊読売編集部が作った「Made in U.S.A 1975」のアイデアを受け継ぎ、76年に創刊されたのが「POPEYE」です。
別にパクられたわけではないと思います。
渡邉さんが表紙に登場した「83年8/25」号の裏表紙を見てみます。
「Made in U.S.A 1975」の最後のページ「奥付」を見てみます。
父の名前はありませんが、父曰く「オレが企画したんだ」
その「Made in U.S.A 1975」から生まれた「POPEYE」の表紙に渡邉さんが。。。
アメフトは私の人生において非常に大きな部分を占めている。
これまでの4章を通じて、10代を振り返りながら、私はそれを確かめました。
答え合わせはできました。
アメフトは私にとってやはり大切な「なにか」でした。
さて、自由体操とはどういう関係が?
4章かけても語り尽くせない部分が残りました。
(「完結編」に続きます)ん? じゃ、これは完結編じゃないじゃん。
自分で自由に体を動かす人がひとり増えれば、日本がひとりぶん元気になります。
2020ならまだ充分に間に合います。
自由体操で動かしましょう。

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